父が教えてくれたこと-2

昨日から私が「一生歩ける足づくり」のお手伝いをしていこうと改めて思うに至った父のことを書いています。

実家にて1歳の頃の娘と父

岡山の病院を退院して喜びもつかの間、今度は左足の指も壊死が始まりました。
再度入院をお願いしましたが、父はわがままな患者ということで断られました。
いつも透析でお世話になっている近所の病院に、自宅から器具を持ち込ませていただき、光線治療をして壊死を食い止めていました。

岡山の別の病院で診ていただけることがわかり、入院となりましたが、年末年始&光線治療の器具が持ち込めないということもあり、壊死は一気に拡がりました。

その病院から「手術ができるのは日本でも3つの病院だけ。旭川、千葉西、小倉です。」と言われ、私は父をお世話できる千葉西を推しましたが、母は2時間半で行けるという理由で小倉に決めてしまいました。

小倉記念病院に転院し、手術は成功しました。バルーン手術といって狭くなった血管を押し広げて血流を良くする手術です。

左足も親指1本だけ残りました。「世界一の医者や!」と父は喜んでいました。
帰りに履いて帰る靴も準備し、あとは退院の日を待つばかり、という時に、突然ひどい下痢が始まったのです。

検査の結果、出てはいけない菌が4つも出たということで、無菌室に隔離されてしまいました。黄色ブドウ球菌や緑膿菌が出たそうです。

下痢が続くので、食べ物も与えられないとのこと。大好きだったラジオも「もう持って帰れ。」と。下痢が続きながら高熱が出ることもあり、そして食べ物も食べることなく、「家に帰りたい、帰りたい。」と言っていた父。

透析の回数も徐々に減らされていきました。
食べられない代わりに、50ccのコーラとヤクルトはOKしていただけたのは救いでした。

何度か娘と小倉にお見舞いに行きました。
娘が小さいため、無菌室には入れません。
生け花で桜を使った時があり、3月に桜を持って行って、病室のドアから見せてあげました。
しばらくして、小倉が桜の時期となり、病室から鏡を使って桜を見られるのですが、見なかったようです。

幼稚園の入園式の前、これが最後かもというお見舞いでは、父の目の色が変わり、元気になり喋ることができました。
亡くなる前に元気になると言われていますよね。
「元気でやれよ!」いつも父はこう言ってくれました。

それから2週間後、父は母が見守る中で息を引き取りました。
退院を楽しみにしていたけれど叶うことはなく、高松から遠く離れた小倉で亡くなりました。

痛みに耐えながら、両足ともに親指だけ残りました。
きっと、また好きなところに行き、好きなものを食べたかったことでしょう。

私は今では知識も、技術もあります。
当時、そうであったなら父を助けられたかもしれません。


父が怪我をする原因が柱に足指をぶつけたこと。
足指が使えている状態なら起こらなかったことかもしれません。
また、父がネフローゼの時にEAT治療が有名で、その治療ができるお医者様のところで治療していればとも思います。

車を運転しながら次々と思い出される思い出に、涙が止まりませんでした。

そして、改めて「一生歩ける足づくりのお手伝いをしていこう!」と思いました。
自分の足で歩くことを諦めなかった父へのオマージュ、リスペクトです。

私に教えるために頭の中に入ってきたのかしら。
ありがとう。

高松空港にて一緒に撮った最後の写真

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ABOUTこの記事をかいた人

足を見れば全身の状態が分かるトータルボディアドバイザーです。足から全身を整え、一生歩ける足づくり、一生動ける体作りをお手伝いします。新宿区在住です☆